俳句の作り方には、「一物仕立て」と「二物衝突」があります
簡単に言うと「一物仕立て」は季語そのものを詠むのに対し、「二物衝突」は季語と別のものを取り合わせて景の広がりを出す詠み方です
簡単に言うと「一物仕立て」は季語そのものを詠むのに対し、「二物衝突」は季語と別のものを取り合わせて景の広がりを出す詠み方です
どの本も、初心者には「一物仕立て」の俳句は難易度が高すぎるため、控えた方が良いと書かれているのですが、わたしは、初心者こそ「一物仕立て」で俳句を作るべきだと思います
理由は次の通りです
■ 「二物衝突」の句は理解が難しい
初心者は、「二物衝突」で俳句を作った方が良いと言われますが
そもそも、初心者の段階で、次のような「二物衝突」の句を鑑賞して理解できるでしょうか?
ゆっくりと寝たる在所や冬の梅
わが胸にすむ人ひとり冬の梅
おそらく、初心者では意味が分かりにくいのではないでしょうか
正直、私には正確な意味がわかりません
意味を理解できない、まだ感動できるほどの技量に達していない状態で
「二物衝突」の句を作れといっても、これは明らかに無理があります
■ 「一物仕立て」の句は理解しやすい
一般的に、俳句は「一物仕立て」の方が理解しやすいものです
桜であれば、桜のことだけを詠んでいますし
梅であれば、梅のことだけを詠んでいるからです
次の句は「一物仕立て」です
寒梅や雪ひるがへる花のうへ
冬の梅あたり払って咲にけり
どちらも、理解しやすいのではないでしょうか
俳句を作るうえで、参考にする句は、やはり理解できる句であることが大切です
つまり、初心者の段階では「一物仕立て」を参考に「一物仕立て」の句を作るべきだと、わたしは思います
■ 「一物仕立て」は説明句になりやすい?
「一物仕立て」で俳句を作ると、どうしても説明句になりやすいため
初心者は、「一物仕立て」で俳句を作らない方がよいと言われます
確かに、一物仕立てといのは、そのものを詠むため、説明的になりやすいものです
梅のことを詠もうとすれば
「梅は美しい」「梅が白く咲いていた」「梅が川べりにあった」
などの説明・報告になりがちです
しかし、この壁にぶつかるのは、初心者であっても
ベテランであっても同じことです
説明句にしないように努力する時が、必ず訪れます
いつかその努力をするのなら、初心者のうちから始めてしまった方が
手っ取り早いと思うのはわたしだけでしょうか
■ 「二物衝突」は説明句にならないの?
「二物衝突」で作ると説明句になりずらいと言う人がいます
このような人から作り方を聞くと、次のような説明を受けます
例えば「梅の花」を詠む場合
「梅の花」と「近くにある適当な出来事」をくっつければ、説明句にならない
梅の花 + シャープペンシル落っこちた
梅の花 + 雲の静かに流れゆく
とりあえず、何でもよいのでくっつければ俳句らしくなるし
「梅の花」と別物をくっつけるので、説明にもならない、と
確かに、説明句にはならないかもしれません
俳句を始めたばかりのときに、この説明を受けたわたしは、同時にこのようにも思いました
「この出来事の、どこに感動をして俳句を詠むのだろうか?」
■ わたしは初めから「一物仕立て」で作った
俳句を始めたばかりのころ、私は「自分の感動したことを俳句で詠みたい」と思いました
梅を見て感動をしたのなら、感動したそのものを詠みたい、と思いました
そう思った時に、自分は絶対に「一物仕立て」で句を作りたいと思いました
先輩方に、俳句に関するいろいろなアドバイスを受けて、どれも素直に聞いてはいましたが、「一物仕立てで作るのはやめた方が良い」というアドバイスだけは聞きませんでした
今その時の判断を振り返ってみると
あの時の判断は正しかった、と感じています
わたしが今まで作ってきた俳句の9割以上は「一物仕立て」です
自分が感動したこと、感動した風景だけを詠んでいます
感動をした対象そのものを詠むには、「一物仕立て」が適しています
感動したことを詠む
おそらく、初心者の誰もが持っているこの気持ちを第一に考えたとき
自然と、初心者は「一物仕立て」で作った方が良い、と感じるのです